この記事は、自身が経験した死産からどのようにして立ち上がってきたのか。お腹の中の娘が教えてくれたことを考えながら綴っています。経験したありのままを書くことで、誰かを不安にさせたり、傷つけてしまったらどうしようと悩みました。でも、私が同じ経験をした人から救いを得たように、今苦しんでいる誰かを助けることができれば、私と同じことになって欲しくないとの思いから、赤裸々に体験談を記事にしています。不安な方は、ここでストップしてください。
前回の記事『妊娠高血圧症候群中の1人クリスマス』からの続きです。
クリスマス休暇も終わり、年末までの短い間
こちらではみな再び仕事モードに戻ります。
5日程仕事を休んでしまい、頑張りが少ないと感じていた私は
そろそろ仕事に戻らなければ
その日は私がオフィスを開けなければならない日でもあり
朝どうにか目を覚ましましたが
なかなか体を起き上がらせることができません。
毎日かかさずしていた出勤前のお化粧もクリスマスを境にできなくなっていました。
立つだけで息切れがする毎日
マルコに支えてもらいながら自宅コンドのエレベーターで下まで降り
ワイキキのオフィスまで車で連れて行ってもらいました。
いつもなら容易に登ることのできるオフィスビルの階段
ビルの中に入ればオフィスまでの大したことのない距離
でもその頃の私には山のてっぺんのように感じました。
絶対に無理だ。
上がれない あそこまで辿り着けない。
マルコにお願いして、オフィスのギリギリのところまで車をつけてもらうことにしました。
その日は1人オフィス。
防犯上、ドアは中からしか開けることができず、鍵がなければ外から開けることはできません。
自分の体の危機を知っていたので
ビル内のセキュリティに電話をして
もしものために何か私の身におきたら救急車を呼んでもらうように頼んでいました。
訪問者が来るたびにドアを開けなくてはならず
ドアまでのたった3メートルの距離ですら、
歩いて扉を開けに行くことができず
居留守を使う時間もありました。
私が妊娠していることは
極少数の人以外ほとんど知らなかったので(特段色々な人に告げる必要もないと思い)
何事もないように対応することに精一杯でした。
5メートルほどの距離にあるトイレまでも、立って歩いていくこともしんどく
トレイに行っても、おしっこもほとんど出なくなっていました。
後から、カルテのコピーを請求して初めて知りましたが
その頃、蛋白尿の結果は最大値の4+をいっていました。
腎機能障害が始まる手前だったのか既に始まっていたのか分かりません。
私のオフィスの仲間は、いつも私の体調を心配してくれ
「体調は大丈夫なの?」「今日の血圧は何?」と聞いてくれたり
休みの日でも私の様子を見にお昼を持ってきてくれたり
アメリカは産休が6週間(帝王切開の場合は8週間)しかないため、私は出産ギリギリまで働いて
産休に入ろうと思っていました。
Y先生に2、3週間早く産もうと言われていましたが、
まだあと3ヶ月もある
自分の体が誰かに支配されているような動けない体
出産まで私は耐え切ることができるのか これから私はどうなっていくのかと不安でした。
2021年12月30日の検診日 妊娠24週
今年最後の診察日です。
1メートルも歩く自信がなかったので、先生に会いにいかなければいけないと思いながらも
仕事も休み、診察予約も取り消したいと思いました。
それほどもう体が辛くてしんどくて動けなくなっていました。
それでもマルコに検診に行った方がいいと言われ
もう支えがないと立っていられない状態になっていましたが
予約時間が近づいていたため、まだ準備のできていない私を置いて
マルコは先に車のエンジンをつけてくると言って出て行ってしまいました。
もう一人で歩けないのに!
着替えすらしんどいのに!
トイレすら座るだけでゼーゼーするのに!!
どうやって一人で下まで降りたらいいの!!!
そんな状態でも、赤ちゃんが元気なら私はどうなってもいいやと思っていました。
先月まではシャワーのたびに、娘に「ぐるぐる動いて元気だね」「お風呂が好きなのね」と話しかけたり、 歌を歌ったりしていたのに
この頃の私は毎日娘に謝ってばかり。
「ママこんなんでごめんね」「こんなに弱くてごめんね」「ママどうしちゃったんだろう」
「私は大丈夫だからベビたんだけは元気でいてね」
「今日もたくさん歩こうと思ったの。でも歩けなくてごめんね。明日は30分ウォーキング頑張るからね」
「毎日、明日は明日はって言って、ママ約束を守れていなくてごめんね」
1人でシャワーをしながら何度涙を流したか
私はずっと自分が怠けているだけだと思っていました。
とてつもなく辛いのに。
死産後すぐに忘れないように記録をつけ始めましたが、
年末年始の記憶は、とにかくしんどく、記憶が曖昧です。
ただ覚えているのは、私は自分が死んでしまうのではないかと感じていたこと。
ログを見ると血圧は朝170以上、夜180以上でした。下の数値は、通常の上の血圧数値をも超える120。
私一人だけの体で血圧が高いだけならまだしも、お腹に赤ちゃんがいてこの血圧。。
私は、本当は怖くてたまりませんでした。それでも妊娠で死ぬことなんてないという根拠のない自信とともに過ごしてきました。
赤ちゃんの心拍は、私の心配をよそにとっても元気だったことだけが救いでした。
私は娘に謝りながらも「あなたは偉い!」と褒めていました。
遅刻しながらもどうにかたどり着いた診察で、
クリスマスから中止していた薬を再開し、毎朝今度は半錠ずつ飲むことが決まりました。
その頃、心配してくれていた日本の友人たちに、
「日本なら管理入院レベルだよ!」「もう仕事も休んだ方がいいよ!」と言われ、
みんなで日本は過保護すぎるだけなのか?
それとも滅多に入院させないアメリカが普通なのか?と話し合い
文化や国民性の違いなのかなんなのか、よくわからなくなっていました。
母は、アメリカは医療費が高いからかしらと言い、
「お金のことは心配せずに入院させてもらった方がいいんじゃないの?」とすら言ってくれました。
マルコは、先生から言われた毎日30分のウォーキングの話もあり
毎日ほとんど動こうとしない私を見て、もっと私を動かせた方がいいのではと思い、私が何か欲しくても、自分で取りなよ?自分でやりなよ?と段々厳しくなってきていました。
先生にどんなに疲れていると言っても相手にされず
一番身近にいるマルコにも辛さを分かってもらえていないのではないか
悲しみと孤独感に胸が張り裂けそうでした。
先生に入院について聞いてみようと思った矢先、
「仕事は何だっけ?」と尋ねられ、オフィスワークであることを告げると、
休むようにと言われませんでした。
やっぱり私がおかしいだけなんだ。
入院だなんて、過保護な日本の話で私のこの状態は普通なんだ
仕事にいかなきゃいけないんだ。
私は5日間も仕事を休んでしまった自分が情けないと感じてきました。
2021年12月31日の大晦日
8月に妊娠がわかってからあっという間にやってきた大晦日。
いつもだったら今年の終わりを楽しみ、年始の予定を立てる。
つい数週間前まで、お正月のお料理何作ろうかなって買い物リストまでつくっていたのに、
大晦日になっても何の材料も買えていません。
今年最後に食べようと楽しみにしていた年越しそばもありません。
マルコは日本食が好きですが、私が求めているものがどれなのか、日本語が読めないため日本的なお買い物は頼みづらいです。
今年最後のディナーに、代わりにステーキを作ってくれましたが、
私は、大きなお肉を食べる気力もなくなっていました。
ほとんどの時間をベッドで過ごし、
0時になり新年を迎えたのか「ファイヤーワークスが始まったよ!」とマルコの声が聞こえ、
ドーーん!ドーーん!と心に響く花火の音を耳もとに、綺麗な夜空を想像しながら私はゆっくりと目を閉じました。
次回は、あの日(死産宣告の日)が訪れるまでについて綴っていこうと思います。

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