【7】お空の娘がこの世界に生まれるまで〜専門医の衝撃発言〜

妊娠・死産

この記事は、自身が経験した死産からどのようにして立ち上がってきたのか。お腹の中の娘が教えてくれたことを考えながら綴っています。経験したありのままを書くことで、誰かを不安にさせたり、傷つけてしまったらどうしようと悩みました。でも、私が同じ経験をした人から救いを得たように、今苦しんでいる誰かを助けることができれば、私と同じことになって欲しくないとの思いから、赤裸々に体験談を記事にしています。不安な方は、ここでストップしてください。

前回の記事「あの日が訪れるまで」からの続きです。

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診察室で死産宣告を受けた後、Y先生から別室に呼ばれ、今後のことについての話をうけました。

つい5分くらい前まで、娘は大丈夫。生きていると思っていたのに。

現実を受け止めきれず

頭は真っ白なのに

どのようにして娘を産むかを決めなければなりませんでした。

手術か通常出産か。

日本では妊娠22週以降は出産しか選択肢がありませんが

アメリカでは手術と出産のどちらかを選べるようです。

死産届なども必要ありません。

Y先生に、手術だと赤ちゃんに会えないけど 通常出産なら会えると

「でもあなたの場合は手術が良いと思う。」と言われました。

私は、元々、開腹手術を2回しているため、帝王切開での出産も決まっていました。

その時、なんで手術だと会えなくて、通常出産なら会えるのかよく意味が分かりませんでした。

ですが、もう質問もできない状態にまで私の精神はダウンし

倦怠感はふと気づくと楽になっていましたが、

体力的にも精神的にも相当落ちていたため、マルコは先生に、私の体に一番負担のない方法でお願いしますと頼んでいました。

私たちが手術を選択すると、先生は専門医を紹介するといって

その先生から連絡があるまで待つように言われました。

専門医からの連絡を待つ間の週末

その頃、ハワイのノースショアではサーフィンの大会が開かれていました。

その週末、仕事の関係もありマルコが顔を出すことになりました。

私は、無理矢理にでも外に出たほうが気分転換になると思い、

おうちで1人になるのも怖かったので一緒についていくことにしました。

お腹の中で亡くなった娘を抱えながら、まだしんどさと疲れは残っていましたが、不思議なことに既にこの時少しづつ歩けるようにまで私のからだは回復していました。 

パイプライン(サーフィンの聖地)に着くと、たくさんの人で混雑していました。

マルコに「中にいる人たちに挨拶してくるけど一緒にいく?」と誘われましたが、とてもじゃないけどその時の私には誰かと会うなんてできませんでした。

誰も知らないところにいたい

誰とも話したくない 

私は1人腰掛けながら誰も私のことを知らない人たちの周りで海を眺めながら待つことにしました。

数時間後、楽しめた感満載のマルコが戻ってきました。

その様子をみて、マルコが元気でいてくれたらそれだけで嬉しい気持ちになりました。

マルコは、お友達や一部の仕事関係者に私の妊娠を告げていたので、

やはりみんなに聞かれたようです。

「私とベイビーはどうしてる?」と。

マルコはつい先日娘が7ヶ月で亡くなったことを伝えたそうで

その場にいた数ヶ月前に生まれたベイビーボーイを抱っこしていたお友達のママは、凍り付いたように目をまるくしてギュッと我が子を抱きしめたようです。

それを見たマルコは、「彼女すごく驚いてたよ。俺だって抱きたかった」とボソッと言いました。

この人、昨日まで号泣していたのに、もう普通に友達に会えて、娘の死も伝えることができて、何時間も人と話してられて、こんな明るくしていてすごく不思議だったし、もう平気なの?そんなものなの?とマルコを見て少し悲しくも思っていましたが、  

実はマルコの心も苦しいに違いない。そうだよね。あなたはパパになるはずだったんだから。あなたは娘を亡くしたんだから。もう娘のことがどうでもよくなったわけじゃないんだよね。

自分のことばかりしか考えられていなかった自分を反省し、

胸が締め付けられるような思いでした。

2022年1月10日 専門医との手術前診察日

週明け、子宮内胎児死亡の手術の専門医K先生と初めて対面し、出産前の診察を受けることになりました。

K先生は、私を見るなり、足の浮腫みがひどいことにすぐに気づいてくれました。

妊娠23週ぐらいから激しくなった足の浮腫みと元の状態の足との比較

「あなたがとても大変だったことがよく分かるわ」そう先生から声を掛けられると、

初めて浮腫みに気づいてくれたこと

ようやく誰かに辛さを理解してもらえたことに

たったその一言で体の力が一気に抜け 

大粒の涙が溢れ出し、マスクの中で涙が頬をつたっていくのを感じました。 

説明を聞いている間、マルコが先生に頼み事をしました。

「もう一度エコーで赤ちゃんを確認してくれますか?もしかしたらまだ生きてるかもしれない」

私はマルコが最後の最後まで諦めず

どれだけ娘に会えるのを楽しみにしていたか

その気持ちを痛いほど感じ

心が苦しくて

いろいろな思いが気持ちを揺さぶり

涙が止まらなくなりました。 

もうマスクの中が濡れて気持ち悪いほどに。

先生は、「もちろん確認するわよ」と言って最新のエコーマシーンを使い始めました。

「見たい?」と聞かれたので、「見たい」と言ったのですが

検査が始まるとなぜか画面を私の方に向けることはなく、最後の娘の姿を見ることはできませんでした。

K先生から、火葬をどうしたいのか尋ねられました。

私は、娘がお空に行ってしまった日から、ずっとそのことが気になっていました。

一体、娘の体はどこに行くのか。どうなってしまうのか。

もし火葬するなら自分たちで探さなければならないと説明を受けました。

私たちは狼狽し、何も考えることができず、私にとってこの異国の地でどうしたらいいのか

答えがでないでいると、「特に火葬場所を指定しなければ、病院のチャペルでちゃんと火葬されるから安心して」と言われました。

「足型は欲しい?」と聞かれ、完全にあの日から思考がストップしていた私は、思わぬ提案に、尋ねられた瞬間、胸がギュッと締め付けられました。

欲しいけど見れないかもしれない。

見たら私はあまりの悲しみに倒れてしまうかもしれないと思い怖くなりました。

その気持ちを察してくれたのか、「足型を残しておくけど、気持ちの準備ができるまで見ないでいたらいいのよ」とそっとアドバイスしてくれました。

そうだ。そうしようと思い、即答で「お願いします」と返事をしました。

翌日の手術のための処置が開始され、

数人のナースとK先生のチームドクター達が集まった診察室で、子宮口にラミナリアを挿入されました。

明日の手術前までに子宮口を開くためです。

すべての処置が終わり、診察室を出るとK先生に再び呼ばれました。

先生から「今回は本当に残念だったわね」と。

そして、

「あなたはクリスマス頃から管理入院し、母子共に24時間モニターされるべきだった」と告げられました。

私は凍りついたように体が強張り、一瞬言葉を失いました。

あぁやっぱり。。

滅多に入院させないこのアメリカでも私は入院レベルだったんだ。

あんな体になってまで放置されていたのはやっぱりおかしかったんだと腑に落ちました。

「もし入院しいたらこんなことは起こらなかったと思う?」と恐る恐る聞くと

K先生は静かに

「結果は変わっていたかもしれない」と告げました。

悔しさが溢れ出しました。

するとマルコも、「僕たち患者にとっては、ドクターの言うことが全てで、ぼくたちはY先生の言うことだけを信じてきた!悔しすぎる!」と吐き出していました。

そして、動けなかった私が入院レベルなほど本当に辛い状態であったこと

歩くなんてとんでもなかったことを知ったマルコは、

私に少しでも歩かせようと厳しくしていた自身の行動に対し、唇を強く噛みながら自分自身を責めていました。

K先生は最後にこう言ってくれました。

「もし次の妊娠を望むようになったら、ハイリスク妊婦専門の先生とチームであなたのことを妊娠のはじめから見ていくから安心して。その時になったらまた連絡してね。」

ハイリスク妊婦専門の先生までいたなんて・・・私はハイリスク妊婦であったことも同時に知らされました。

私はなんて無知だったんだ。私の無知さが娘を殺したんだ。

なんでY先生は、ハイリスク妊婦専門のドクターに私を回してくれなかったの!?

悔しくて悔しくて溜まらなくなりました。

翌日の手術の場所の話に変わり、

「本当はK病院で手術をしようと思ってスケジュールしたけど、もしものことを考えてQ病院(ハワイ最大の総合病院)に変更したいから、再スケジュールできたら今日中に連絡するわね」と言われました。

もう娘もいないのに、もしものことって何だろう?って思いながら

ちゃんと私のことを考えてくれるこのK先生にすべてを委ねました。

こんなにも患者の身になって考えてくれる先生に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

次回は、娘の誕生した日について綴っていきたいと思います。

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